​私が建築の道を歩むまで

私は、田舎町の小さな呉服屋の息子として、生まれました。

 

呉服屋と言っても、おばあちゃんが、戦後の何もない、

日々の食べ物にも困るような状況から、いろんな方のご縁に助けられ、

必死に生きる為に立ち上げた呉服の行商屋です。

 

子どもの頃の私は、野球大好き少年で、カープファンのおじさんに、

当時、スター選手だった背番号8、ミスター赤ヘル山本浩二さんの、

ユニホームを着せてもらい、旧市民球場へ連れて行ってもらうのが、

楽しみでした。

 

幼少のころは、野山を駆けめぐり、木に登ってカブトムシ取り、

川で泳いだり、魚釣りをしたりして、自然の中で、

思う存分遊び廻っていました。

 

 

地元の小学校、中学校と毎日野球付けの日々を過ごし、

高校も甲子園常連校へ進学して、甲子園をめざし、

行くゆくはカープの選手なんて夢も抱いていました。

 

そんな高校進学が見えてきた中学校3年のとき、

今までのハードな練習が災いして、腰椎を痛めるという、

ケガに見舞われ、一年間野球ができない、悶々とした日々を過ごしました。

 

それでも腰のけがを直し、高校に進んで野球をしようと、

甲子園常連校へ進学を決めたのですが、

治療にあたってくれた主治医の先生から、野球を続けたら、

腰をつぶすかも、とドクターストップ。

この時点で野球への道をあきらめました。

 

元来切り替えの早い私は、高校でも、陸上競技のハンマー投げ選手として、

スポーツ浸けの日々と、仲間と楽しい日々を過ごしました。

 

大学への進学を考えるようになったころ、

家業の呉服屋を継がないといけない、とおぼろげながらに思っていた私は、

商業・経営系の学部を受験。しかし希望していた学部への受験に、

ことごとく失敗。

 

その頃、おやじが継いでいた呉服屋も、

バブル崩壊後の景気の低迷のあおりをまともに受けて、日本人の着物離れ。

廃業、という選択をしようとしていた時期でした。

 

家業を継ぐ、という道がなくなった私は、自分の今後の進路を、本気で悩んだ時期でもありました。

 

 

建築の世界へ

 

これからどういう道に進んで生きて行こうかと思案していた時、子供のころから、

新聞の広告などに入っていた、住宅会社のチラシなどを見ては、その間取りの空間を想像し

て、楽しんでいた自分がいたことをふと思い出し、子どものころから、手で物を作るのが好

きだった私は、建築の道もおもしろかも、これからは、何か手に職を付けて生きて行こうと

思ったのが、この道に進むきっかけでした。

 

でも、まったくその知識のない、文系人間の自分が、

今から建築の道の進むことができるのだろうか、という不安もありましたが、

手当たり次第に、建築の勉強をさせてくれそうな学校を探し出し、

2年間だけやってみようと、建築の専修学校へ進みました。

 

その学校で、建築の基礎の基礎を学び、

2年後の春、地元の中堅の住宅会社に就職しました。

 

建築設計の仕事に就いてからは、早く仕事を覚えて、

一人前になろうと、がむしゃらに、上司や先輩に言われるままに、

仕事をこなしていました。

 

最初に入ったこの住宅会社の上司が、とにかく何でも経験させてくれる人で、建築・家づく

りのいろはを叩き込んでもらいました。

 

それからの、約十数年間、地元の住宅会社で、住宅の設計の仕事をさせてもらってました

が、今にして思えば、住宅の設計といっても、その会社の方針、カラーに沿って、

仕事をしていただけで、ほんとうに建て主さんの幸せな暮らしの為の家づくりなのか、

自分の本当にやりたい住宅設計は、こんなものではないんじゃないか、と

 

年々そんな想いが積もっていったように思います。

 

 

『チルチンびと』との出逢い

 

そんな時期、お世話になっていた著名なステンドグラスの作家さんから、

 

 

「清原さん、今後あなたが本気で、木の家づくりをして行こうと、考えているのなら、

この本を、じっくり読んでみんさい。それだけ価値のある本だよ。」とある雑誌を紹介してくれました。

 

住まいは、生き方、というテーマで、自然に寄り添った暮らしの提案と、

全国で、化学物質の含まれていない天然素材をできるだけ使って、本気の木の家づくりをしている工務店さんを紹介している、チルチンびとという季刊雑誌でした。

 

http://www.fudosha.com/publication/chilchinbito/cb/cb_092/cb092.html

 

まったくその存在を知らなかった私は、

この雑誌を手に取って、眺めた瞬間に、激しい衝撃を受けました。

 

自分が心の中で思い描いていた、建て主の幸せをを最優先に考えた、本物の家づくりを、

熱い思いを持った人たちが、日々研鑚し合って、本気で取り組んでいる工務店さんが、全国にたくさんあることに、感動すら覚えたのを思い出します。

 

井の中の蛙とは、まさにこのこと。

 

自分がこれまでやってきた、家づくりの未熟さを思い知らされました。

 

そして、今の状況のまま家づくりを続けていてはいけない。

 

もっともっと、本物の木の家づくりを勉強して、実践できる環境にステップアップしないといけない。

 

そんな強い思いに駆られて、とりあえず後先考えず、

次のことは何とかなるだろう、いや絶対に何とかしようと、

勤めていた住宅会社に無理を聞いてもらって、退職させてもらいました。

 

思いというのは不思議なもので、自分で本気の木の家づくりのできる環境に、

身を置こうと決断したら、その数か月後、その雑誌を出版している風土社さんが、

全国の同じように本気の想いのある工務店を組織して作っている、

『チルチンびと 地域主義工務店の会』に、当時広島県で唯一加盟していた、

工務店さんから、知人を通じてご縁があり、お世話になることになりました。

(現在その工務店さんは退会しています。)

 

40歳になった歳の秋のことでした。

 

 

それからというもの、水を得た魚のように、木の家の設計、家づくりが益々おもしろくなり、

全国の工務店さんが集まる勉強会などにも、積極的に参加させてもらったり、

チルチンびとの雑誌などにも、度々紹介されていた建築家の方たちとのご縁もあって、

自分の今の、家づくりの基本的な考え方、大げさに言うと、

自然を楽しむという、生き方までもが、大きく舵を切った数年間、

本当の意味での、木の家づくりに邁進させてもらいました。

 

 

そして、この全国の同じ志を持った、先輩方、仲間とのご縁も深まり、

いろんなことを学ばせてもらいながら、家づくりをしていた数年後、

自分の想い描く、本物の木の家づくりをもっと追究して、自分で専念してやりたい、

 

家づくりも、日々の暮らしも、一度しかない自分の人生も、もっと大切に自分に正直に生きたい。

 

そういう思いが強く芽生えてきて、またまたとてもお世話になった、

工務店の社長にお願いして、独立をさせてもらいました。

 

あと数年したら、50歳の節目を迎えようとしていた歳。

 

2013年の夏、これまでの経験と、自分の本気の思い、

長年支えてもらった、たくさんの方々のご縁で、

どこまでできるか、とことんやってみよう、という思いだけで、地域の建て主さんのことを最優先で考えられる建築屋として、0からのスタートを切りました。

 

おかげさまで、いろんな方との出逢いで、少しずつですが、

自分に家づくりを任せてもらえる建て主さんとも、ご縁があり、

日々ほどほどに忙しく、家族、子供との時間もできて、

木の家づくり、庭づくり、暮らしづくりの、

お手伝いを楽しませていただいています。

 

 

今年でちょうど半世紀50年、生かさせていただき、くらしの工房 楽も4周年。

私の建築人生も、間もなく30年を迎えます。

 

まだまだ進化し続けている設計士・建築屋ですが、地域の建て主さんにいい木の家づくりを楽しんでもらって、

一緒にその喜びを分かち合いたい、という強い想いで、日々取り組んでします。

 

​みなさんとのご縁を、心より楽しみにしております。

   

 

​2017年7月吉日

清原 博幸