私が建築の道を歩むまで
投稿日:2020.11.26
私は、田舎町の小さな呉服屋の息子として、生まれました。
呉服屋と言っても、おばあちゃんが、戦後の何もない、
日々の食べ物にも困るような状況から、いろんな方のご縁に助けられ、
必死に生きる為に立ち上げた呉服の行商屋です。
子どもの頃の私は、野球大好き少年で、カープファンのおじさんに、
当時、スター選手だった背番号8、ミスター赤ヘル山本浩二さんの、
ユニホームを着せてもらい、旧市民球場へ連れて行ってもらうのが、
楽しみでした。
幼少のころは、野山を駆けめぐり、木に登ってカブトムシ取り、
川で泳いだり、魚釣りをしたりして、自然の中で、
思う存分遊び廻っていました。
地元の小学校、中学校と毎日野球付けの日々を過ごし、
高校も甲子園常連校へ進学して、甲子園をめざし、
行くゆくはカープの選手なんて夢も抱いていました。
そんな高校進学が見えてきた中学校3年のとき、
今までのハードな練習が災いして、腰椎を痛めるという、
ケガに見舞われ、一年間野球ができない、悶々とした日々を過ごしました。
それでも腰のけがを直し、高校に進んで野球をしようと、
甲子園常連校へ進学を決めたのですが、
治療にあたってくれた主治医の先生から、野球を続けたら、
腰をつぶすかも、とドクターストップ。
この時点で野球への道をあきらめました。
元来切り替えの早い私は、高校でも、陸上競技のハンマー投げ選手として、
スポーツ浸けの日々と、仲間と楽しい日々を過ごしました。
大学への進学を考えるようになったころ、
家業の呉服屋を継がないといけない、とおぼろげながらに思っていた私は、
商業・経営系の学部を受験。しかし希望していた学部への受験に、
ことごとく失敗。
その頃、おやじが継いでいた呉服屋も、
バブル崩壊後の景気の低迷のあおりをまともに受けて、日本人の着物離れ。
廃業、という選択をしようとしていた時期でした。
家業を継ぐ、という道がなくなった私は、自分の今後の進路を、本気で悩んだ時期でもありました。
建築の世界へ
これからどういう道に進んで生きて行こうかと思案していた時、子供のころから、
新聞の広告などに入っていた、住宅会社のチラシなどを見ては、その間取りの空間を想像し
て、楽しんでいた自分がいたことをふと思い出し、子どものころから、手で物を作るのが好
きだった私は、建築の道もおもしろかも、これからは、何か手に職を付けて生きて行こうと
思ったのが、この道に進むきっかけでした。
でも、まったくその知識のない、文系人間の自分が、
今から建築の道の進むことができるのだろうか、という不安もありましたが、
手当たり次第に、建築の勉強をさせてくれそうな学校を探し出し、
2年間だけやってみようと、建築の専修学校へ進みました。
その学校で、建築の基礎の基礎を学び、
2年後の春、地元の中堅の住宅会社に就職しました。
建築設計の仕事に就いてからは、早く仕事を覚えて、
一人前になろうと、がむしゃらに、上司や先輩に言われるままに、
仕事をこなしていました。
最初に入ったこの住宅会社の上司が、とにかく何でも経験させてくれる人で、建築・家づく
りのいろはを叩き込んでもらいました。
それからの、約十数年間、地元の住宅会社で、住宅の設計の仕事をさせてもらってました
が、今にして思えば、住宅の設計といっても、その会社の方針、カラーに沿って、
仕事をしていただけで、ほんとうに建て主さんの幸せな暮らしの為の家づくりなのか、
自分の本当にやりたい住宅設計は、こんなものではないんじゃないか、と
年々そんな想いが積もっていったように思います。
『チルチンびと』との出逢い
そんな時期、お世話になっていた著名なステンドグラスの作家さんから、
「清原さん、今後あなたが本気で、木の家づくりをして行こうと、考えているのなら、
この本を、じっくり読んでみんさい。それだけ価値のある本だよ。」とある雑誌を紹介してくれました。
住まいは、生き方、というテーマで、自然に寄り添った暮らしの提案と、
全国で、化学物質の含まれていない天然素材をできるだけ使って、本気の木の家づくりをしている工務店さんを紹介している、チルチンびとという季刊雑誌でした。
http://www.fudosha.com/publication/chilchinbito/cb/cb_092/cb092.html
まったくその存在を知らなかった私は、
この雑誌を手に取って、眺めた瞬間に、激しい衝撃を受けました。
自分が心の中で思い描いていた、建て主の幸せをを最優先に考えた、本物の家づくりを、
熱い思いを持った人たちが、日々研鑚し合って、本気で取り組んでいる工務店さんが、全国にたくさんあることに、感動すら覚えたのを思い出します。
井の中の蛙とは、まさにこのこと。
自分がこれまでやってきた、家づくりの未熟さを思い知らされました。
そして、今の状況のまま家づくりを続けていてはいけない。
もっともっと、本物の木の家づくりを勉強して、実践できる環境にステップアップしないといけない。
そんな強い思いに駆られて、とりあえず後先考えず、
次のことは何とかなるだろう、いや絶対に何とかしようと、
勤めていた住宅会社に無理を聞いてもらって、退職させてもらいました。
思いというのは不思議なもので、自分で本気の木の家づくりのできる環境に、
身を置こうと決断したら、その数か月後、その雑誌を出版している風土社さんが、
全国の同じように本気の想いのある工務店を組織して作っている、
『チルチンびと 地域主義工務店の会』に、当時広島県で唯一加盟していた、
工務店さんから、知人を通じてご縁があり、お世話になることになりました。
(現在その工務店さんは退会しています。)
40歳になった歳の秋のことでした。
それからというもの、水を得た魚のように、木の家の設計、家づくりが益々おもしろくなり、
全国の工務店さんが集まる勉強会などにも、積極的に参加させてもらったり、
チルチンびとの雑誌などにも、度々紹介されていた建築家の方たちとのご縁もあって、
自分の今の、家づくりの基本的な考え方、大げさに言うと、
自然を楽しむという、生き方までもが、大きく舵を切った数年間、
本当の意味での、木の家づくりに邁進させてもらいました。
そして、この全国の同じ志を持った、先輩方、仲間とのご縁も深まり、
いろんなことを学ばせてもらいながら、家づくりをしていた数年後、
自分の想い描く、本物の木の家づくりをもっと追究して、自分で専念してやりたい、
家づくりも、日々の暮らしも、一度しかない自分の人生も、もっと大切に自分に正直に生きたい。
そういう思いが強く芽生えてきて、またまたとてもお世話になった、
工務店の社長にお願いして、独立をさせてもらいました。
あと数年したら、50歳の節目を迎えようとしていた歳。
2013年の夏、これまでの経験と、自分の本気の思い、
長年支えてもらった、たくさんの方々のご縁で、
どこまでできるか、とことんやってみよう、という思いだけで、地域の建て主さんのことを最優先で考えられる建築屋として、0からのスタートを切りました。
おかげさまで、いろんな方との出逢いで、少しずつですが、
自分に家づくりを任せてもらえる建て主さんとも、ご縁があり、
日々ほどほどに忙しく、家族、子供との時間もできて、
木の家づくり、庭づくり、暮らしづくりの、
お手伝いを楽しませていただいています。
今年でちょうど半世紀50年、生かさせていただき、くらしの工房 楽も4周年。
私の建築人生も、間もなく30年を迎えます。
まだまだ進化し続けている設計士・建築屋ですが、地域の建て主さんにいい木の家づくりを楽しんでもらって、
一緒にその喜びを分かち合いたい、という強い想いで、日々取り組んでします。
みなさんとのご縁を、心より楽しみにしております。
2017年7月吉日
清原 博幸